画像生成AIで失われたもの
ここ最近の画像生成技術の進化を見るにつけ、「ああ世の中から大事なものが失われてしまったんだな」と少し悲しい気持ちになる。
おそらくあと数年で、ネットで見るような画像や映像は「フェイク」かどうか見分けがつかなくなり、私たちは何が正しい情報か読み解くことがどんどん難しくなっていくのだろう。
そもそも、人類はリアルな情報を伝えるために文明を進歩させてきたのではなかったか。
それは、言語(口語)の獲得に始まり、その言語を記録として伝える文字の発明へと続く。当初は石板や石柱だった記録媒体が紙に進化することでポータビリティが上がり、やがてそれは出版印刷技術の発明によって爆発的に広がる。
その後は、写真や録音、録画といった記録技術の発展と、電話やラジオ、映画、テレビ、インターネットといった伝達・配信技術の発展により、私たちは世界中のリアルな情報を見届けることができるようになった。
それなのに、AIがそれをあっという間に超えてしまった。「リアル(のようなもの)」が人の手で簡単に作れるようになってしまった。
最近ネットで画像を見ても、「これはフェイクではないか」という疑念ばかりが先に立ってしまう。「人間の形をした大根」も「背中の模様がハートに見える猫」も「雲海に浮かぶ幻の城」もすべてフェイク…。
そんなおもしろ画像で済めばまだいいが、いずれ個人に危害を加えたり、社会を揺るがし、戦争の引き金になるようなものも出てくるかもしれない。
そんな真実が見えない時代に、「これはリアルである」と相手に思わせるには何が必要なのか。突き詰めていくと、その情報を発信している人の信頼性に行き着くのかなと思う。
その信頼性を担保するため、もしかしたら数年後には、「これは生成画像ではありません」いう認定マークが義務付けられたりするのかも。あるいは、画像生成自体が銃刀法のようなもので規制されたりする可能性もある。
いずれにせよ、僕自身は当面、「画像生成」とはできるだけ距離をとるつもりである。使うとしてもごくごく最小限に。
来月からAdobeの料金体型が2つに分かれ、「生成AIあり」のプランと「生成AIなし」のプランを選択することになるのだが、もちろんしばらくは「なし」の方を選ぶことにする。
まあその方がだいぶ安いから、というのがいちばんの理由ではあるのだけど。